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「零式空想架空戦闘機」 2013年 制作

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「零式空想架空戦闘機」によせて      フリーライター 八木健一

忘れてはいけない悲しみ

惨劇の中にも砂粒のような奇跡が

 鉄の彫刻家・橘 宣行はこれまで「自由に手を触れてもらい、登ったり、遊んだりして欲しい」と様々な作品を発表してきた。それは、自信が幼い時に夢中になったアニメや特撮ヒーロー物、テーブル・ゲームなどから印象を受けたものだ。武骨で荒削りな鉄そのもののドシンとした存在感とメカニカルなモチーフ、そして、ユーモアにあふれる独特の作品は、子供たちはもちろんのこと大人たちも童心に戻り、彼の作品に次々と乗り込み、その様々な仕掛けをアトラクションのように体験してきた。とてもファニーでワクワクさせる彼の作品群は、アートをより身近に楽しめるものとして新たな可能性を導きだした。

 今回、発表した「零式空想架空戦闘機」は、ゼロ戦をモチーフに、般若の面を機首に取り付け、これまでとは一転した不穏感に満ちた緊張感のある作品だ。なぜ、橘は今あえてゼロ戦を制作したのだろうか。

 守るものがあるからこそ

「3.11以降、何かオレの中で大きく変わりだした」と訥々と語り出した。震災復興の具体策はなおざりにされ、尖閣諸島、竹島問題など日中韓の緊張は高まっている。国内外ともに日本の状況は厳しい局面にある。

 「社会現象に対してアーティストとして何ができるかなんて微塵も思わない。」と橘は語るが、今取り巻く状況の根本的な原因は何かと彼なりに紐解いていく。そこで、歴史認識の問題に突き当たる。その中でも、領土、資源、エネルギー、農作物を奪い合う「人間の飽くなき欲望に身につまされた」と慨嘆した。

 特に、太平洋戦争における日本の侵略行為から敗戦に至る経緯に注目していった。なぜ、この戦いに突き進まざるを得なかったと。橘がゼロ戦を敢えてモチーフにしたのは、戦争を美化することでは決してない。

「自分自身、戦いに行きたいなんて思わない。どうしようもない歴史の渦に巻き込まれて、悲しみを背負いながら行かざるを得ないなんて、きっと心では涙を流しながら戦っていた人たちがほとんどだと思う」と一飛行兵として最前線に赴いた人たちへ深く同調していった。守らなければならない人たちがあるからこそ、彼らは戦地に行かざるを得なかった。超国家主義に個人は翻弄された時代だった。

開戦当初では世界一の水準

ゼロ戦の正式名称は、三菱零式艦上戦闘機。時速550㎞近くの高速でありながら、非常に短い半径で旋回が可能。つまり、スピードがある上に小回りが利く格闘戦では絶対的な力を発揮した。航続距離は三千㎞を楽々と飛んだ。当時の単座戦闘機の航続距離が数百キロだったことを考えると世界最高水準の戦闘機だ。これを設計したのは、堀越二郎と曽根嘉年の二人の若者。当時、連合国はこれだけの技術力が日本あるとは思いもしなかった。

開戦当初から連戦し、制空権をほぼ掌握するまでになった。しかし、ミッドウエイ大戦で作戦ミスから大きく戦況が悪化、アメリカは物量作戦に加え、後半戦には最高時速700㎞を誇る戦闘機P51を投入、空中戦では歯が立たなくなる。後は、硫黄島の戦い、沖縄の地上戦、そして、原爆投下へと敗戦の道をたどっていく。

アメリカが制空権を握ってからのゼロファイターは阿修羅のごとく鬼にならなければ、戦えないまでに追い込まれ、特攻隊として自らの命を犠牲にしていった。まさに、鬼神である。橘が機首に取り付けた般若の面が悲しみを堪えながら、生きたいという欲望さえも奪われた一飛行兵の顔立ちにシンクロしてしまう。

 汗を流すということ

 敗戦を迎えた日本は、アメリカの占領政策の下、復興への道を手探りで模索していく。そこには、政治が果たした役割は、個人的にはほんの僅かだと思っている。

 明日は少しでも良くしていこうと一日一日を誠実にそして切実に生きた人々が成し得た力が遥かに大きいと感じてしまう。「家の生活にはいつも生産する現場があった。父方の祖父はしめ縄を作り、母方の祖父は養鶏の鳥小屋を自力で作り上げていった」と橘は振り返る。つまり、低廉な賃金にも関わらず、毎日、懸命に汗を流した人々の結晶が日本復興の奇跡をしっかりと支えたのだ。

 そして、ゼロ戦を設計した二人の若者のように、キラ星のように数多の技術者が革新的な製品を次々と開発し、工業国、物づくり大国としての道をまい進していった。資源の少ない日本にとって、技術力と物づくりしか復興していく道はなかったかもしれない。そして、それは高い志と誇りを持った町工場の職人がしっかりと下支えしていった。骨身を惜しまず自らの職人としての技術向上に懸けていった人々の賜物でもある。

 橘がメカニカルなモチーフを意識的に使うのは、そういった物づくりに人生を賭していった人々への敬意でもある。しかし、バブル以降、3Kと呼ばれた工場仕事は技術の伝承が難しくなり、低廉なコストを求めて大企業は海外生産を加速した。物づくりの現場は今も難しい局面に置かれたままだ。

 汗を流すことを忘れた人々は、人間としての大切な何かを失いかけている。橘の般若の面を付けたゼロ戦に戦争から復興へとかけた人々の情念が浮かび上がってくる。今だからこそ、忘れてはならない悲しみがあると問いかけてくる。

 語られた真実の歴史

 取材の時、橘は家族の歴史を少しずつ辿っていった。戦後、GHQのアーミー・キャンプに職を得た彼の父は、ある米兵と仲良くなり、自宅近くの中華料理屋「一品香」でともに食事をとり、酒を何度も酌み交わした。その米兵は、後に朝鮮戦争に出兵され、命に関わる大けがをし、帰国する。ある日、大阪大学の教授から突然、橘の自宅に電話があり、「ミシシッピーに行った時、ロスさんというアメリカの方が突然、あなたは日本人ですかと尋ねられ、もし大阪から来たのならタチバナという男を知らないだろうか」と。「彼はもう一度タチバナに会いたい」と一品香の名前を教えて、その教授は電話帳で調べた結果、橘の自宅へと細い運命の糸は繋がった。

 医師に止められたのにも関わらずロスさんは来日し橘の父と再会した。そして、父もテキサスのロスさん宅を訪れ戦勝国と敗戦国、異文化の違いを越えて交流は続いた。

 橘自身が渡米し、制作活動していた時期のある出来事がある。いつも鋼材の切り出しへと鉄工所に通っていた。白人、アフリカン問わずあらゆる人種が泥だらけなりながら、現場仕事に精を出している工場だった。ある日、いつも無口なプエルトリカンが「お前は日本人か、実は我が家に家宝がある。日本と戦った時、祖父が日本の将校が持つ軍刀を持ち帰ったんだ。祖父の自慢の品だけど、もし、遺族の方が生きていたら、遺品として返して欲しい」と訴えた。

 残念ながら行き違いからその軍刀は受取れなかった。もし、受取れたとしても機内に持ち込むことは不可能だったし、かなりの理解のある方が手続きをサポートしてくれないと日本には持ち帰ることは難しかっただろう。

 ただ、戦場に置いて命のやりとりをした人だからこそ、また、日々、汗を流して苦労を苦とも思わない人だからこそ分かることがある。それは、友情や相手への敬意といった人としてのとても重要なところだ。そして、凄惨な戦場とは何かを肌で理解している方だからこそ、戦争の愚かさが分かるし、その説得力は絶大だ。

オーラル・ヒストリーという言葉がある「語り継がれる歴史」だ。高齢者社会となった日本にはたくさんのご老人の方々がいる。その人たちがどうやって、戦中、戦後を生き抜いてきたか今、傾聴に値することは大きい。それは、耳を覆いたくなるような、惨劇ばかりではない。日本の復興という華々しい物語ではないかもしれないが、過酷な日常の中から生き延びたリアリティがある。そういった、砂粒のような奇跡だからこそ、学ぶべきことは多いのだから。

                               八木 健一

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